|
|||||
安永6年(1776年)〜天保14年(1843年) 弘法寺は真言宗で、京都の大覚寺の系列です。日和佐の弘法寺「法印の寺」には法印さまが祀られています。法印さまは、日和佐に生まれ、甚兵衛といいました。 この法印は若い時は船の炊きであった。炊きというのは船中で炊事その他の小用事を勤める役目である、法印は当時から、船行中の船から海に飛び込んでは、泳いで船に追いついてくる荒行を何度もしていたという。 そんなことから、自然に神通力というか念力というか、神秘的な力を身につけることができるようになってきた。そして玉逗子山に登って荒行をし、日和佐川にて寒行をしているうちに、もう何事も思いのままにすることができるようになった。 ある年の大晦日に何かの用で法印は船で土佐の清水に行くことになった。船中で船頭や皆の者は、「明日は正月だというのに餅が欲しいもんじゃのう」とガヤガヤ騒ぎたてていた。「こりゃ、どうしても法印さまに頼まずばならない」と言って法印に頼むと、「それでは俺が餅を持ってきてやるから、俺がよしと言うまでは、眼をつむっておれ」と言った。そして皆の者が目をつむると、法印は拍手を三度打った。すると重箱に入った餅が、どし〜んと音をたてて落ちてきた。 のどが渇いたと言えば、ミカンを飛んで来させたり、お金のない時には小判を降らせたり、法印さまは法力を使って皆のために尽くしたので、たいそう評判になっていた。 そのころ、小松島の金磯というところに化け物が出て、村の人は困っていた。村の人が「日和佐の法印さまにお願いすればよかろう」ということになって、法印のところへ頼みに来た。法印はこれも人助けになると思って出かけて行き、七日間の祈願の後に、とうとうその化け物を退治してしまった。金磯の村の長者はたいそう喜んで、「法印さま、法印さま、ありがとうございます。どうぞ、しばらくご滞在なされて下さい。」と言ったが、法印さまは「それでは形見にこれをつかわそう」と言って、わらじと布子の着物二枚をおいて立ち去ったという。 今でもこの形見の品は、その長者の家に残っているそうである。 法印さまは67才で亡くなったと言われ、弘法寺には、法印さまのホラ貝、腹巻、着物など沢山の遺品があります。 |
|||||
|
|||||